2007年4月16日月曜日

追悼・浜田英夫〜その映像人生〜


( 2006.10.19ユニ通信に掲載したものです。)
                
 浜田英夫さん(記録映画作家)が亡くなって5ヶ月たってしまいました。今年1月末に拡張性心筋症で入院されましたが、2月には退院し、その後自動車運転免許の高齢者講習もパスするという順調な回復ぶりでした。ところが5月7日早朝、着替えの途中で意識不明となり、呼吸停止状態で救急入院。その後20日間、呼吸は回復するも意識はついに戻ることなく、5月26日夜、78才の生涯を終えられました。最期を看取られた夫人、芳子さんからいただいたメールには「あたかもファインダーから夕陽が沈んでいく様子を見ているときのように、ゆっくりと穏やかな旅立ちでした」とありましたが、私の心の中にも、落日の残照を見るように浜田さんの思い出がますます強く輝いています。
 
パソコンを使いこなす
 浜田さんと私は、2年前からある共通の知人の紹介をきっかけに、電子メールと電話によるやり取りを続けてきました。70才をすぎてパソコンを始めた浜田さんは、メールだけでなく、ご自分でホームページを開設したり、年賀状がわりのビデオレターをパソコンで編集しCD-ROMにして送って下さったり、そのITスキルはひとまわり以上若い私よりもずっと上でした。
 心臓の持病を持つ浜田さんは、「フィルムやビデオのカメラはもう無理だが、デジタルビデオカメラは軽いし、編集も録音もパソコンで簡単にできる。私のような高齢の、しかも病気持ちが自由に映像作品を作れるのは、パソコンのおかげだ」と言っておられました。
 
最新作はDVDで
 浜田さんが最後に取り組んだ作品もデジタル時代にふさわしいものでした。自分がこれまで作ってきたフィルム作品をデジタル化し、パソコンでノンリニア編集した「人間が歩み始める時」(DVD86分)です。大学や短大の幼児教育の教材で、ゼロ歳児、幼児期、児童期の子どもの発達と援助、そして読書教育、作業教育、障害児教育に関わる映像を12章に編集、授業の展開に即して自由に選択できるように構成しています。
 この編集は2年にわたり、特に昨年の夏は、暑さのなかで大変苦労されたようでした。素材の不足部分は新たに自分で撮り足しもしています。こうして昨年12月、ようやく完成の記者発表にこぎつけ、1月からDVDの販売を開始しました。1月半ばにご自宅をお訪ねした時の浜田さんは、重荷を下ろされたような、ほっとされたお顔をしていました。(写真はその時のもの) 
 子どもの教育をテーマにさまざまな映画を作ってきた浜田さんにとって、この仕事はまさにライフワークの集大成といえるものでした。

映像作家への道のり
 昭和2年(1927)東京渋谷で生まれた浜田さんは、小学生の頃から写真を撮ったり、ラジオを組み立てたりするのが好きな少年でした。戦後、中央大学法学部を卒業して銀座にある小さな商社に就職しますが、3年後には病気で退職。写真の趣味を生かしてスライド関係の仕事をしながら、当時アマチュアの間で盛んになりつつあった8ミリ映画を始めました。
 昭和32年(1957)に、基地反対闘争の記録「砂川は抵抗する」を朝日新聞主催第一回全日本小型映画コンクールに応募し2位に入賞。翌33年(1958)には、盲学校の小学2年生の生活を記録した「でもぼくらはみつめることができる」で同コンクール最高賞を受賞します。
 これをきっかけに浜田さんはプロとなり、フリーでPR映画などの助手をしながら、8ミリを16ミリに替えて盲学校の生徒を12年間追い続けます。その生徒のひとり、盲目のフォーク歌手長谷川清志の生い立ちを中心に編集したドキュメンタリーが、昭和44年(1969)に発表した「若い心の詩」(16ミリ白黒55分)でした。この映画はその年の文部省青少年映画賞(賞金100万円)、教育映画祭特別賞、毎日映画コンクール記録文化映画賞など数多くの映画賞を受賞。浜田さんはこの作品をきっかけにハマダプロダクションを立ち上げました。ハマダプロの作品はほとんどが自主制作で、企画、脚本、監督、撮影、編集、そして販売まで全て浜田さん一人で行うものでした。

映像への思い
 浜田さんはその後、子どもの教育を考えるさまざまなテーマの、教師向け、保護者向けのいわゆる社会教育映画を次々に企画、制作、販売しました。そしてその総集編とも言うべきものが、最初に紹介した最新作DVD「人間が歩み始める時」なのです。86分、12章の映像はそれぞれ3分から10分に編集されています。
0) タイトル&はじめに 1)ゼロ歳児 2)保育のしごと
3)ふれあい   4)あそび   5)生活経験   
6)生活習慣   7)本との出会い 8)手と脳   
9)自然はどこに?    10)心身障害児をのばす。 
11)重度身障児への取り組み    12)未来へ&END
各章は単なる映像資料集ではなく、それぞれメッセージがあり、起承転結を持ち、全体でも起承転結をもつ2重の構成になっています。これらの映像は全て浜田さん自身で撮影され、浜田さん自身の手で編集されたものです。映画やビデオは一般には集団の共同作業で作られますが、浜田さんは最終の録音、ネガ編、現像などを除きほとんど一人で作りました。そうした仕事の仕方はアマチュアでは普通ですが、当時の短編文化映画、教育映画界においては希有な存在であり、むしろ今の映像作家やビデオジャーナリストに近いといえるでしょう。
 その浜田さんの作品作りにかける思いを知ることができる一文があります。31才で小型映画コンクール最高賞を得た際に書いた「見えない子らと学ぶ」(アサヒカメラ1958年7月)という随筆の一部です。
「映画は人々に希望と力づけを与えるものであらねばならない。私はドキュメンタリーによりこれを試みようと考える」
「…厳しい現実と闘い続けて、前向きに生きようとする人々の行動を、カメラも共に問題を見つめ、考えながら描いてゆきたい。その中から私自身、人間の生き方をつかみたいと考える」
 浜田さんは、アマチュア時代から変わることなく、この思いを貫いてこられました。秋には浜田さんの追悼上映会を企画して、多くの皆さんに浜田作品をもう一度見ていただきたいと思っています。 
(映像教材プロデューサー 榊 正昭)